2025年


ーーー1/6−−−  寝年末、寝正月


 
息子夫婦が孫を連れて年末帰省をしているさ中の12月28日、朝から何だか体調がすぐれなかった。前の日は昼から夜まで酒を飲んでいたので、そのせいだろうと思った。近所で不幸があり、朝は出棺見送りをし、昼前には喪服を着て、車で5分ほどの場所にあるお寺へ弔問へ出掛けた。その頃は、普通に動けるくらいだったのである。ところが、昼食前に悪寒がし出し、念のためにと体温を計ったら、39度近い熱だった。

 すぐに寝室へ引き上げて、ベッドに入った。せっかく帰省してくれたのに申し訳ないが、彼らにうつしてもいけないので、仕方のない事である。

 翌朝はいったん平熱に戻った。午前中、東京へ帰る息子家族を駅へ送るついでに市内の病院へ行こうと思い、電話で問い合わせたら、診療は正午までなのだが、既に外来が大混雑になっているので、受付を打ち切ったとの、申し訳なさそうな返事があった。またベッドに入って寝ていたら、夕方になって39度を超える熱になった。インフルエンザと確認されたわけではないが、いったん熱が下がってまた高熱が出る「二峰性発熱」というのは、インフルエンザの症状の特徴の一つであるらしい。

 もはやのっぴきならない状況に陥ったのは明らか。年末、年始に予定していた、蕎麦打ちの会と新年会は、キャンセルの連絡を入れた。

 翌日30日は、カミさんも熱が出た。かくして夫婦共倒れとなり、この年越しは、寝年末、寝正月となる事が確実となった。

 私の寝室は、暖房器具が石油ファンヒーターしか無い。これは、夜中は消して、朝になったら点けるという使い方である。一晩中点けておくと、空気が汚れるし、危険でもあるから、消しておくのである。そこでこの時期は、起床時の室温が数度ということも珍しくない。こんな部屋は病人に良くないと言うことで、エアコンのある来客用和室に引っ越した。これは快適だ。一日中温度管理ができるし、畳だからいろいろ周りに置いても手を延ばし易い。

 この天国のような部屋で、四日間を寝て過ごした。熱は早々に下がったのだが、倦怠感、違和感はかなりのものだった。そして体の節々の痛み。特に日頃から要注意の腰は、ひどい痛みに襲われた。まともに立って歩けないほどの痛みである。これには参った。

 食事の時以外は、布団に入ったまま、本を読んだり、テレビを観たり、ラジオを聴いたりしながら、のんびりと過ごした。食事は、冷凍保存のご飯を温めて雑炊を作ったりして食べた。カップ麺も食べたが、なんだか腹の納まりが悪かった。あまり消化が良くないのであろうか。寝ている時間を有効に使いたいと思ったが、意外と眠りに落ちている時間が長かった。普段だったら、とてもこんなに寝てられないと感じるくらい、良く寝た。

 年末年始を寝床の中で過ごし、この間酒も全く飲まなかったと言うのは、成人して此の方初めての出来事である。近年、生まれて初めてという事態に遭遇することが何かと多いのだけれど、今年は出だしからそのような事になってしまった。




ーーー1/13−−−  チャットGPT


 
昨年末帰省した息子と、酒を飲みながら雑談をしていた時に、チャットGPTをやっているかと聞かれた。やったことが無いと答えると、とても便利だから使ってみればよいと言われた。そして、一例として私の氏名を入力して「この人は誰ですか」と問い合わせたら、チャットGPTはもっともらしく、ちょっと当人が喜ぶようなお世辞を交えて回答をした。それを見て、急に関心が高まった。

 チャットGPTは、既に世の中の色々な局面で使われていて、ある意味で社会問題化している部分もあるらしい。学生がレポートを書くのに、チャットGPTを使う。就職活動のエントリーシートを、チャットGPTで書く。そしてそれを読んで内容を精査するのも、チャットGPTを使うなどと聞いたことがある。また、理系の著名な大学教授がテレビ番組でこう言っていた。日々膨大な数の論文を読むのが仕事の一部となっているが、現在はそれをチャットGPTやらせている。論文を読ませて、内容を要約させたり、自分の研究に関係があるかどうかを判断させるのだと。チャットGPTが無ければ、研究者の仕事はもはや成り立たない、とまで言っていた。

 昨年末からインフルエンザで臥せっていたので、気まぐれに思い付くまま、チャットGPTを使ってみた。これがなかなか興味深かった。

 まず、聖書の記述の中で、これまで疑問に感じていた事を質問してみた。そうしたら、まことに行き届いた回答が得られた。ちょっと角度を変えて、意地悪な質問もしてみる。人間だったら気分を害するような質問である。それに対しても、チャットGPTは真面目に誠意を持って答える。言葉を尽くして、何とか理解させようと努力をする。その姿勢は一貫していて、揺らぎが無い。まことに知的かつ冷静で、自分もこうありたいものだと憧れるほどであった。

 ジャンルを変えて、自然科学、哲学、芸術、文学、政治、経済など、様々な分野に関して、勝手気ままな質問をしてみた。そのいずれに対しても、次々と的を得たような答えを出した。そして、最初は概略的な答えを出し、さらに深く知りたい場合は選択肢が提供されるというケースが多かった。対話型なので、こちらのニーズに応じて、どんどん進展していくのである。そして質問によっては、「それはとても鋭い質問です」などとおべっかを使う事を忘れない。

 しかし、弱みを見せることもあった。蕎麦打ちに関する、ある専門的な用語の説明を求めたら、的外れな回答をしたのである。すかさずその誤りを指摘し、「知らなかったのですか?」と突っ込んだ。するとチャットGPTは自らの非を認めず、誤魔化しの説明に終始した。「誤解を与えてしまったようですね、もう一度説明をし直します」などと言いながら、同じ事を繰り返したり、でっち上げの知ったかぶりを展開するのである。さらに私が、「あなたは間違いを犯してもそれを認めないのですか?」と聞いたら「間違っている事が分れば、間違いを認めます」と答えた。要するに、データが不足していれば、判断できないのである。

 そう言えば、聖書に関する質疑応答は、チャットGPTの得意分野であるらしい。本人(?)がそう述べていた。おそらく世界中で、データが豊富に蓄積されているからだろう。

 ところで、もう一つ興味深く感じた事がある。それは、チャットGPTがこちらの質問の意図を正確に理解して応答するという事である。相手が人間の場合、こちらが言った事に対して、相手が的外れな応答をするという事が、よくある。意識しているか否かに関わらず、かみ合わない会話を繰り返したり、関係が無い方向に話を持って行こうとしたりするのである。それは人間関係の根底に潜む問題であり、各人の性格や価値観、あるいは立場やバックグラウンドの違いから生じるものと思われる。チャットGPTにはそれが無い。したがって、対話をしていてとても気持ちが良く、能率も良い。

 生身の人間と会話をするより、チャットGPTとやり取りをする方が気分が良く、能率も良い、ということが、人間の中で次第に優位を占めるようになったら、人間社会ははたして幸せになりえるだろうか。

 チャットGPTに聞いてみるか。




ーーー1/20−−−  人気の逆転


 御嶽海は、長野県出身の力士である。デビュー以来とんとん拍子で番付を上げ、最高位は大関、幕内優勝3回を果たす活躍をした。最近は精彩を欠き、番付を落として、現時点では前頭14枚目である。

 活躍していた頃は、当然の事であるが、県内でたいへん人気が高かった。なにしろ、長野県出身の力士で大関に昇進したのは、江戸時代の雷電爲右エ門以来である。相撲期間中は、私が住んでいる地域でも、住人が顔を合わせれば御嶽海の話題で持ちきりになった。

 ところが大関在位4場所で陥落という、これまた異例の速さで下降線をたどることになった。そうなると、急に風当たりが強くなった。それまで御嶽海を褒めちぎっていた人々が、悪口を言いだしたのである。負ける度に、「情けない、みっともない」、「やる気がない」などととこき下ろすようになった。

 もたらしてくれた喜びが大きかった、また期待も大きかった。それだけに、成績が悪くなると、失望感が大きく、かえって憎しみのようなものを抱くようになる。その心理は、分からなくもない。しかし、手の平を返したように、プラスからマイナスへ転じるのは、いささか眉をひそめたくなる現象ではある。一度は熱心に応援した力士なのだから、落ちぶれようとも、最後に姿を消すまで、応援し続けてあげても良いではないか。そのようにしても、何の問題も無いではないか。

 このような人気の逆転現象は、信州人の特徴なのか、それとも、日本国内どの地域でも共通なのか、はたまた人類共通のことなのか。




ーーー1/27−−−  蕎麦つゆの味


 
教会のうどん会(昼食会)で、雑談を交わしていたら、蕎麦の話題になった。ある人が「大竹さんは蕎麦打ちの名人で、プロ級だ」とのたまった。私は「ずいぶん持ち上げてくれますね。でも、そんな事は無いですよ」と謙遜した。その場に居合わせた女性が、「ツユもご自分で作るんですか?」と聞いてきたので、「以前は家内が出汁を取ってツユを作りましたが、今では市販品を使っています」と答えた。持ち上げられた直後だったので、なんだか少し後ろめたいような気持ちになった。

 ちゃんと出汁を取ってツユを作った方が、純正な味わいで美味いのは分っている。しかし、出汁を取るとなると、大量の削り節を使わなければならない。その使い終えた削り節を捨てるのは、なんとも勿体無い気がする。犬を飼っていた頃は、犬の食事に混ぜたりして利用したが、今はそれも叶わない。一時期は、毎日昼食に二枚の笊蕎麦を食べていたので、ツユの消費量も多く、廃棄される削り節も多かった。結局その削り節問題がネックとなって、ツユを作るのは止めになった。

 さらに付け加えるならば、ツユは出汁とかえしを混ぜて作るのだが、出汁は保存に難がある。冷蔵庫に入れても、安心できるのは数日程度だ。毎日蕎麦を食べるペースだと、頻繁に出汁を作らなければならない。それが億劫になって、市販のツユに移ってしまった、という事情もある。

 市販のツユでも、そこそこ満足できるものもある。カミさんは眉をひそめるが、自分で打った蕎麦を食べるには、それで十分だと私は思っている。

 ところで、自宅で蕎麦ツユを作っていた頃、地域の旦那衆でやっている蕎麦会に、そのツユを持参して披露した事があった。ところが評判は芳しくなく、結果は期待外れに終わった。やはり、普段から慣れ親しんだ市販品の蕎麦ツユの方が、一同のお気に召したのである。調味料などと同様に、蕎麦ツユも嗜好に左右されるものであり、慣れた味が好まれるのだろう。

 私も、これまでの経緯はさておき、現在では市販のツユに慣れてしまったのだと思う。